昨日の県の会合

珍しく、全国幹部に入って頂いての会合だった。
非常に盛り上がり、決意出来た会合であった。

新・人間革命「勇気27」をひかれ、
先生は「お題目をあげるんだ、諸天善神を揺り動かせ! 策や方法ではない!」と言われた。
会合で話して、同志が動いてくれるなんて傲慢なんだ。1対1の対話でしか納得してくれない。
「どんな人をも、笑顔で包み、対話し、励ましていった」とある。
山本伸一の率先垂範の行動が、全同志を 触発し、共に戦う 何人もの “ 山本伸一 ” を 
つくり出していったと。。。


そのあと、「幸せとは・・・」と言う指導。
これは、6年前に頂いた内容とほぼ同じだったので、後に添付するが、
この指導読んで当時、腹が決まったので。
直接聞く事が出来最高に嬉しかったです。


さあ、いよいよ壮年が立ち上がる時。 
昨日の決意を最後まで持ち続け、大勝利の創立80周年にしてまいりたい。


【資料】
 私の信心の原点(抜粋)当時MFK (040104)

 私たちが信心に励む最大の理由、それは、「幸せになるため」です。 
ところが、「幸福とは何か。」と、学会員一人ひとりにお聞きすると、「いろいろの悩みの解決」、
病気の方は「病気を治して健康になること」、あるいは、「絶対的幸福境涯です」と言われ、
「それは何ですか」と聞き返したりします。
 ここで、「幸せになる」という概念を間違えると、とんでもない信心の方向に進んでしまいます。
仏法では幸せになることを、「仏になる」「成仏する」という風に言います。
 仏法の説く幸せとは何か。それは、「仏とは何か」ということを考えていけば分かる。
牧口記念会館完成直後、池田先生が、そのことについてお話されたことがありますが、
実は、それが、私の信心の原点なんです。

 そのとき、先生は三つのことを話されました。
 まず、第一に、「日蓮大聖人の仏法では、死んで仏になるのではない。生きている間に仏になるのが仏法の目的である。
御書にも『いきてをはしき時は生の仏・今は死の仏・生死ともに仏なり』(「上野殿後家尼御返事」P.1504)
とあるじゃないか。死の成仏しか説かないような宗教はまやかしである」と言われた。

 私も、その御書は知っていました。死んだときは死んだ仏だ、と。そして、ふと、自分に問いかけた――
「生きている間に仏になる」ということを本当に信じているのか。それを確信して、信心しているのだろうか、と。
 きょうは、皆さんにも聞いてみたい。「成仏」と聞いて、今、生きている間の出来事だと思う人は、手を上げてください。
大概の人は、成仏と聞くと、死んだ後のことだと思っている。
同志が亡くなると、みんなで顔を見て、半眼半口で成仏したとか、あと三時間足りないとか、いろいろある。(笑)

 成仏とは、普通、死んだ後の出来事だと思いますね。だけど、皆さん方の中には、信心して30年・40年、長い人では50年に
なろうかという方がいる。皆さんは、“生きている間に仏になる”仏法を実践してきたんではありませんか。
 ちなみに、他人の評価はともあれ、「私は仏だ!」と思う方、自信を持って手を上げてください。

 ここで、“手を上げた人は変じゃないか”、と見ている方が、実は変なのです。
だって、私たちは“生きている間に仏になる”と信じて、信心しているんです。
皆さんは、“生きている間に仏になる”という宗教を信じながら、実際には、30年も40年も“凡夫を貫いて”生きている。

 実は、皆さん方は「仏」ということを勘違いしているんです。
 日蓮仏法では「いきてをはしき時は生の仏・今は死の仏・生死ともに仏なり」と、“誰でも、仏になる”と説いているんですよ。

 東大名誉教授で世界最高の仏法学者と言われる中村元(なかむら・はじめ)さんは著書の中で、釈尊の悟りを得た場面を
「彼、釈尊仏陀となった後でも、依然として人間であった」と書いている。
先生は、それを引用しながら、二番目に、「仏になるとは、人間以外のものになるのではないのだ。悟りを開いた仏になった後
でも人間なんだ!」と言われました。 悟りを開いて、人間と別のものになったら「宇宙人」じゃないですか。

 しかし、一番ビックリしたのは、三番目の先生の言葉でした。
 先生は「仏となっても、悩みもあれば、苦しみもある。病気もする。様々な、障魔の嵐が競い起こることに、変わりはない!」
と言われました。この言葉は、私にとって、本当にショックでした。
一瞬、先生の顔を拝見しながら、私は、「仏と、凡夫と、どこが違うのか」と思って聞いていました。
 でも、考えてみれば、何の苦労もない人生とは、果たして、奥行きのある、深い味わいのある人生なんでしょうか。
何の苦労もない人生なんて、バカしか育ちませんよ。そんな一生で、本当に良いのでしょうか。
 人格も磨かれない、何の意味もない人生に等しい、何の苦労もない人生――
そんなことを説くような宗教だったら、私は信じません。“楽になるということが幸せだ!”、というのなら、一番、楽なのは、
生まれてこなければよかったんです。生まれてこなければ、生きるために、こんなに苦労することはなかったんです。
そんなバカなことを大聖人の仏法が説いているわけがない。   では、何なんだろう――と思いませんか。

 最後に、池田先生がおっしゃったことが、私の信心の原点になっております。
先生は「所詮、仏とは、仏の敵と真正面から戦いきっていく信心にある!」――こう言われました。
この言葉を聞いたときの感動を、私は忘れません。涙が出て、背中に電流が走るような感動でした。
 「ああ、そうだったのか! 私は、今まで、何と大きな間違いを犯してきたんだろう」
 それまでの私は、“ずうっと、学会活動をして、勤行をして、唱題をして、戦い続けていけば、そのうちに、
いつかきっと幸せになれる!”と思って信心してきました。

 「所詮、仏とは、広宣流布に真正面から戦いきっていく信心にある!」――  この言葉は、何を意味するのか。
「本当の幸せとは、広宣流布のために、戦っている中にこそあるんだ!」「広布のために戦い抜く人生こそ、最高の幸せなんだ!」
 ――先生は、そう教えてくださいました。

 私は、それ以来、「そのうちに、いつか幸せになる!」というのを止めたんです。
こんな、ばかばかしい考えを、死ぬまでもっていたら、「俺の人生は、いったい何だったんだろう」ということになります。

 そういう意味で、幸せとは、将来の彼方にあるものじゃない。
先生と共に、学会と共に、広宣流布のために戦い続ける人生そのもの――
それこそ最高の価値があって、最高に充実して、何ともいえない、思い出を作っている、日々の積み重ねにある。
 その、“学会活動、広宣流布の戦いこそ、最高の幸福だ!”と思える人が、実は「仏」なんです。
 
 釈尊の仏法、日蓮仏法の根本を貫いているのは「民衆が仏である」という、仏法の大事な視点であると思います。 
私たちは、功徳とか、幸せとか言われると、「仕事で成功して、儲かって、自宅を建てて、拠点にして、財務もこんだけやって・・・」
というような発想になってしまいがちです。

 私は今、寮に住んでいますが、皆さんに、家を買っちゃいけないと言うんではないんです。
学会の同志の偉大なところは、自分が楽(らく)したいから、自分の家を建てよう、という人は一人もいません。
全部、拠点にしよう、広布のために自宅を使っていただこう、という人ばかりです。
むしろ、借家に住んでた方が誰も来なくて、静かに一人で寝てられる。(笑)

 “全部が広宣流布のために!”という風に人生を定めたら、一瞬・一瞬に起きていることが、最高の幸せなんです。
その境涯に立ったとき、本当の仏の境涯になる――こう確信して、今年の「一千万の戦い」こそ、私たちの境涯を深めていく、
一番大事な戦いとして捉えて、頑張っていきたいと思います。
(1月4日、八王子平和会館で)