思いやりの心

「 思 い や り の 心 」   「前 進」 巻頭のことば 事務局長 北条 浩

自分の心さえつかみにくいのに、人心をつかむことは至難中の至難事である。
ゆえにまた、心をつかまれれば、その人は意のごとくなって、しかも喜びを感ずるであろう。
「心服随従」これである。

人を服せしむるにも色々ある。腕力や、その人の技術の力や、判断、指導の力による服従がある。
個々の徳性の範囲内において、それは力がある。

次に金力、たとえば会社で人を雇用する場合、月給の範囲内で人を動かすことができる。
しかし、これにも限度があるし、おうおうにして、金ではどうにもならない羽目に陥る事がある。

つぎに権力がある。かつての軍隊に、顕著にみとめられる絶対服従がそれである。
国家権力はいうにおよばず、国体、組織の枠にはめて、個々の人間を動かすことができる。
しかし、これにも限界がある。権力のゆきすぎは、おうおうにして反動を呼ぶ。けっしてまことの服従ではない。


人を動かす肝心かなめは、腕力でもなければ、金でもなければ、権力でもない。
それは人の心をつかむことである。

しからば、人の心をつかむには、どうすればよいか。
答えは「思いやりの心」である。
しかし、そのことは、至難中の至難事であろう。精神修養でできることではない。
そして、そのためにこそ、最高の仏法によって、仏道修行するゆえんがあるのである。


なかんずく、人の上にたつ幹部たるものの心得べき肝要はここにありといいたい。


ある日の会長室、ある支部の幹部A氏がはいってきた。
「先生、昨夜、孫がヤケドをいたしました」
「長男か、二男か?」 「長男です」
「そうじやない。次男だ、二男のはずだ」
「いや、たしかに長男と聞きました」
「二男だ。そんなことを聞きちがえてどうするか。きみの孫じゃないか。すぐにたしかめてみなさい」

A氏の家は東京ではなかった。長距離電話をしてみると、はたしてヤケドをしたのは二男のほうであった。

「先生、二男でした……」

「そうだろう。だから、きみたちの報告はあてにならない、というのだ。
自分の孫のことでさえこうだ。他人のこととなると思いやられる。もっと親身になりたまえ。
わたくしは、ゆうべ電話をうけた。長男なら年も上だから安心だが、二男ならまだ一つになったばかりだ、
だからよけい心配したんだ。それぐらいのことに気がつかないでどうするか。
ほんとに親身になれば、電話の声を聞いただけで、ピンとくるものだ。
そんないいかげんなことでは、学会幹部はつとまらないぞ」

先生の語調はきびしかった。わたくしは、そこにクギづけにされた思いであった。

自分の孫であっても、うっかりするわたくしたち。
それにくらべて、赤の他人でありながら、ひとりの赤ん坊のヤケドに親身の心をつかわれる会長。

これでこそ、人は心から従うのだ。


「慈悲」−−これこそ人格の最高の徳なのだ。
そして学会幹部は、この心がけでなければならないのだ。


人を思いやる心を忘れて、自分の社会的地位や財力や、能力を誇りとしたり、
部下とまちがえて命令で人を動かそうとする者は、断じて創価学会の幹部ではない。


第4代会長の北条さんの言葉である。

職員をはじめ、学会幹部はこの事を肝に銘じることが必要。
先生も常に”ただ心こそ大切なれ!”とのご指導をされているではないかっ!!