「自分のものとせよ」

「自分のものとせよ」 事務局長 北条 浩  
「前 進」 1960年 昭和35年 7月号 №3 巻頭のことば


舟に酔う人がいる。それは乗せられているからだ。
こころみにカジをとらせてみたまえ。その人の酔いはたちどころにさめるであろう。
酔っぱらってなどおれないからだ。
このことは、カッターで帆走をやったときにしばしぱ経験したところだ。


なにごとも「自分のもの」と思ってとっくんでいけば、このように、酔いから目覚めるものである。
仕事に熱が入いらなかったり、思うようにいかなかったり、失敗ばかりしてくさったり、
人のことが気になったり、うらやましくなったり、やきもちをやいたり、自分がみじめになったり、
自信を失ったり、そういうふがいない状態は、あたかも舟酔いの状態に似ている


それは、自分に能力がなかったり、特別に体力が弱いというのではなくて、
その原因は、舟に乗せられているからなのだ
他人の舟にお客様として乗っかっているからなのだ。
自分からカジ棒をにぎって、前方を見つめて「さあこい、こんどはどっちだ、よし"面舵だ"」とやってみれば
たとえ"取り舵"のところを逆に"面舵"にとったところで、たいしたことはない。
先輩がすぐ気がついて教えてくれるだろう。決して舟はひっくりかえりはしないのだ。
そして、はじめて自分の貴重な体験がえられ、自信をもつであろう
「舟酔い」のゆううつな気分は、いっぺんにふきとんでしまうであろう。


「マスターする」ということばがあるが、マスターとは、日本語で"主人公"ということだ
その仕事をマスターするということは"その仕事の主人になれ"ということだ。この仕事はおれのものだ。
人に、頼まれてやっているのではない。俺がやりたくてやっているのだ。この気構えでいこう。


戸田先生からこんなことをうかがったことがある。
ある工場が倒産して、機械が差し押えられてしまった。いよいよ競売ということになった。
そして、落札者が機械を運び出す日がきた。
そのとき、長年その工場で働いてきた一人の職工がでてきて、落札者に必死になって、「この機械は、オレが長年かわいがってきた機械なんだ。
この機械をもっていくんなら、オレもいっしょにつれていってくれ」と哀願したというのである。

先生は、この職工のことを話されて、「これこそ見上げたものだ。職工魂というのはまさにこれだ」とおっしゃった。
月給いくらでやとわれているような根性ではなくて、この機械はオレがかわいがってきたんだ、オレはこの機械と心中するんだという
仕事に対する情熱、機械に対する愛情、この精神を、先生はこのうえなく愛されたのである。

雇われ根性というものを、先生はもっともみにくいものとされた。とくに、青年でそういう根性のあるものは、将来見込みはないと断定された。
いまの世の風潮は、なげかわしいことに、この雇われ根性がだんだんと激しくなっているのである。まさに亡国の兆である。


私たちにはすばらしい理想がある。それがための建設の一生という、すばらしい人生観がある。
苦労しても、しがいのある人生を私たちは与えられたのだ。こんなに幸福なことがあろうか。

「自分のもの」ということが決まったら、あとは「一歩先んじろ」といいたい。
中途半端は一番いけない。一歩ふみだすことだ。人がやらないうちに先んじてふみだしてしまうことだ。
この微妙な精神状態が、じつは大きな作用をするものである。

同じ話を聞くのに、一人でも前にいるのと、自分が最前列にいるのとでは、聞き方がぜんぜんちがうものだ。
多くの諸君は経験ずみであろう。柱のかげになどすわるときは、よほど自信のないときだ。
しかし、こっちからみると、柱のかげがまたよくみえるものだ。その卑屈な根性がいかん。一歩前へでたまえ。そのとたん
気分はスーッと晴れるだろう。


ちょっとした勇気、これが明るく人生を歩む秘訣である。

正しい信仰の世界においては、この心の反映はまことに敏感で、するどい。

「一歩前へ」―――そして明るく人生を歩もう。



そう、法戦に負けた今こそ「一歩前へ」の思いで、計画的な組織構築をしなければならないと思う。
次の戦いから連続勝利、「常勝関西」と再び胸を張れるように!!